その動機は?
2018/03/31
最近よく噛みしめて思っていることは、ともすると自分が自分に嘘をつくということ。
例えば、子供の小さな失敗を大袈裟に扱って、彼を踏みつける勢いで叱責した後に、妻の
「そこまでする必要があるの?優しく説明してあげたらいいだけじゃない。」という一言
で我に返り、小さな失敗と、自分の激しい言葉を比較するに、なんとも言えぬ不条理な
感覚が残ったことがありました。少し冷静に、自分の心の内を時系列で遡って行くと、
その日の午前中にあった仕事上の問題で自分自身が苛立っており、その苛立ちを発散する
ために、子供の小さな失敗を利用したことに思い当たりました。普段の自分であれば、
そんなことは無かったのです。
本当に相手を思っているフリをして、自分の弱さを、自分より小さな者への攻撃ですり
替える、何という卑怯者であろう、と自分の浅ましさに驚きました。
親交のある30代半ばの先生が、所属している大学の医局長を評した言葉で、
「とても真摯で人当りもいいのですが、人の事を想っているフリをして自分の事しか
考えていないことを医局員は皆分かっています。」というものがありました。
また懇意にしている40代前半の先生が、医局の先輩のことに触れた言葉で、
「皆の意見を収集し、その意見を尊重しているフリをしていながら、必ず自分の思い
通りの結論に持っていく人でした。」というものがありました。
本当にそう思っているのか、その裏の動機は何なのか?人はその時ではなくても
気づくものだと思います。その人の為に言う言葉なら真っ直ぐに伝わるでしょうし、
また、不純な動機の言葉なら、嫌らしく伝わるのでしょう。
私が以前所属していた大きな組織では、いつも自発的であることが大事とばかりに、
全体会議や研修、ディスカッション等、頻繁にやっておりましたが、何のことは無い、
経営陣の考え方は、君たちが決めたことなんだから責任取れよな、というもので、
自分達の決めたという建前であれば(結論は用意されていて)モチベーションが
高まるだろう、という策略が見え透いていて、ほとほとしらけた覚えがあります。
その動機は何なのでしょう?
菅原道真の歌に、
「心だに誠の道に適ひなば 祈らずとても神や守らむ」
というものがあります。
常日頃から、自分に嘘をついていると、何が本当の事か分からなくなってしまうのかも
知れないと感じています。なので自分は、自分がどれ程自分を騙しているのかを日々
検証しています。そして、その動機が何なのか?と自分に問いかけています。